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竹島 Blog 18/ 善人であるウェルギリウスの「罪」

 最近、面白い本に出会いました。『やさしいダンテ<神曲>』(阿刀田高著)。イタリア・フィレンツェの詩人、ダンテの『神曲』を読みやすく解説し、非常にユーモラスな表現で読者を楽しませてくれる内容になっています。

 

 この中に登場する人物でウェルギリウスという人がいるのですが、彼はダンテの為に力を尽くしてくれる善人です。地獄に落ちる人間に「罪」があるというのは何となくイメージがつきますが、ウェルギリウスはそうではなく善人なのに天国に帰れてはいない。我々一般人も地獄に落ちるほどの罪は犯していないが、天国に行けるほどの人生を生きてはいない、そう感じられている方は多いのではないでしょうか。もっとも『神曲』は、キリスト教を信仰していない人は地獄行きという設定であり、マホメッドも地獄の第8層にいるくらいですから、では仏教はどうなるの?日本神道はどうなるの?という疑問は残ります。

 

「『神曲』は、13世紀から14世紀にかけてのイタリアの詩人・政治家、ダンテ・アリギエーリの代表作。

地獄篇、煉獄篇、天国篇の3部から成る 14,233行の韻文による長編叙事詩であり、聖なる数「3」を基調とした極めて均整のとれた構成から、しばしばゴシック様式の大聖堂にたとえられる。イタリア文学最大の古典とされ、世界文学史にも重きをなしている」(Wikipedia)

 

 ダンテの旅は地獄から始まりますが、神からの命で案内役を務めることになったウェルギリウスと出会います。ウェルギリウスとは実在した人物で、ダンテより1300年以上前に生きていた人ですが、本作に登場するということは、ダンテが尊敬していた人なんでしょうね。そもそもこの『神曲』自体がダンテの創作による長編叙事詩ですが、細かくて真に迫った表現からは、考えたというより感じた内容を描いているようにとれます。地獄・煉獄・天国までを実体験した内容に彼自身の創作が加わったものなのではないか、と個人的には感じています。

 

「プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro、紀元前701015? - 紀元前19921日)は、ラテン文学の黄金期を現出させたラテン語詩人の一人。ヨーロッパ文学史上、ラテン文学において最も重視される人物」(Wikipedia)

 

  ウェルギリウスはダンテを護衛しながら地獄の第一層から第九層へと降りていきます。そして最終的に地獄を出てダンテを煉獄の最上階までを案内し、その後は別の女性天使に引き継ぐのですが、そこに行くまでの最も過酷な道のりを案内するわけです。地獄は深くなるごとに悲惨な光景となり、生きているうちに罪を犯した人々が悶え苦しんでいるのが見えます。ダンテは、「生き人」として特別な許可をもらい地獄の見学をしている、という立ち位置ですが、地獄の悪鬼には話が通じないものも多く、何度も危ない目に遭います。しかしウェルギリウスの力強い護衛のおかげで肉体的にも精神的にも救われながら道を進むことが出来たのです。

 

ウェルギリウスの言葉。

・第八層、第六の谷

「さあ、怠惰を捨てなさい。羽根の布団に包まれたまま名声を勝ちうることはできない。・・(略)・・立ちなさい。魂が肉体を支えるなら、どんな戦にも勝てるはず。魂の力で息の苦しさにうち勝ちなさい。・・(略)・・あなた自身のためだ。がんばれ。」

 

・煉獄の入り口

「なにを心配している。私があなたを見捨てるなんて、ありえないことだ。いつもかたわらにいる。信じなさい。」

 

・煉獄の最上階

「あなたは地獄の火も煉獄の火も見た。・・(略)・・ここから先は無案内だ。ここから先はあなた自身の喜びを案内人とすればよい。・・(略)・・正面に輝く太陽を見なさい。花を見なさい。美しい木々を見なさい。・・(略)・・あなたの意思のままに進みなさい。私はあなたに見えない冠をあげよう。」

 

 このセリフからウェルギリウスは非常に正義感の強い誠実で優しい男ということがわかります。しかし実は彼は、地獄の第一層「リンボ」というところに身を置いていて、そこは未決囚の溜まり場みたいな所でした。彼はキリストが生まれる前に生きていた人なので、そういう人々はリンボに入る、ということらしいのです。「別に悪いことをしていない。褒められてもよい立場の者も多いが、それだけではダメ。キリストの洗礼を受けていない。キリストの教えよりも前に生まれているから仕方がないとしても、とにかく神を正しく敬っていない。私もその一人である。」

 

「もとはと言えば、私はなにかを行ったからではなく、行わなかったから罰せられたのだ。そのことが理由でリンボに置かれているのだ。リンボでは嘆きはあるが、号泣ではない。ただため息があるばかり。洗礼を受ける前に死んでしまった者たちのすみかだ。悪を働くことはなかったが、いやそれどころか数々の善行をなしたが、神の掟を知らなかった者たちばかり。・・(略)・・。」

 

 ウェルギリウスはこんなにも善人なのに、キリスト教に殉ずる生き方をしなかったがためにリンボ行きだったのですね。キリスト教が出来上がる前に生きていた方なので可哀想ではありますが。単に善行と見えることを行っても、行動のための本質は宗教的愛を理解しそれが根底にあること、が必要という意味なんでしょうね。

 

 ウェルギリウスは煉獄の第4層で、 なすべきことを行う意志の根底に愛があることそしてその愛は自然の愛と意図的な愛の二つに分けられることと説明しています。

 

 神曲において地獄に落ちている人間の罪は、よこしまな愛欲、暴食、吝嗇(けち)、浪費、異端邪教を信じた者、暴力、欺瞞、裏切り等々です。

 

 これに対し煉獄は、地獄に行くほど罪深くはないが、天国にいくほど徳があるわけでもない人が、過去の過ちを悔いて修行しているところなんですね。煉獄にいる人々は、高慢、嫉妬、怒り、怠惰、貪欲、浪費、淫蕩等の過ちを犯した人です。

 

 なすべきことをなさなくても、生きている間は誰にも責められない。しかし、なすべきことをなさなかった場合は、地獄へは行きませんが、天国へも行けない苦しい状態になるんでしょうね。つまり煉獄でさまよう、ということです。これは読んでいて自分も含めて、大勢の人に当てはまるのではないか、と感じてしまいました。

 

 きっと「罪」とされていますが実際は違って、なすべきことをしなかった自分の良心が自分を苦しめるのだと思います。誰に指摘されなくても自分の心だけは覚えている、という意味なのだと思います。

 ただの善人としてではなく、宗教があるならその宗教に準じた精神を持って行動すること。そして、なすべきことはしっかりなさなくてはそれを自分の心が覚えていて、自分が苦しむ結果となる、ということなのだと理解しました。地獄行きの「罪」を犯さなくても、自分が苦しむことになる。それは自分の心が覚えているから。ということは裏を返せば、人間の本質は「善」なるものである、ということですよね。

 

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:竹島