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竹島 Blog 10/七夕の願いを叶えるには

 先日、日中に空き時間ができたので院長と近所にある三崎稲荷神社に参拝に行きました。
三崎稲荷神社は水道橋駅東口徒歩1分くらいにある神社ですが、800年以上も歴史がある由緒正しい神社です。

説明によると、三代将軍家光が参勤交代の制度を定めた際に、自ら参拝し、諸大名にも参拝を促したとのことで、その後諸大名は参勤交代の江戸入りの際に必ずこの神社に参拝して心身を祓い清めるようになり、これが慣例化したとして「清めの稲荷」と称されるようになったようです。
何度か遷座して、現在の位置に移ったようですが、とても綺麗に維持されていて、地元の方に愛されている感じがします。

さて、参拝が終わって帰る際にふと境内にある笹に短冊がたくさん吊るしてあることに気が付きました。そういえば、そろそろ七夕だったな、と思い、自分が最後にお願いごとをしたのは何十年前だったかな、などと考えたりしていました。 ・・そのうち、皆様はいったいどんなお願いごとをするのかだんだん気になってきたので、ちょっとだけ失礼して皆さんのお願いごとを見てしまったんですね(ごめんなさい。)

 

ざっと見た中で、お願い事を大別すると2つ。

1 対象者などおらず周りの皆の健康を願うなど、多くの人々に幸せがもたらされますように、という全体に向けたタイプの願いと
2 この試験や学校に合格したい、嫌な人から逃れたい、恋愛成就で好きな人と付き合えますように、などいった個人的なタイプの願い、の2つがあったように思います。

後者の方は、その願うお気持ちは十分に理解できるのですが、その願い方が自己中心的ではないかの確認はした方がいいと思います。つまり何が言いたいかというと、同じ願い事をするにも、願い方によって叶うか叶わないかの割合は変わってくるだろう、ということですね。

どういう意味かと言うと、例えば「この試験に合格させてください。」は自己都合だと感じます。他にも同じ試験を受ける人が大量にいて、皆が同じことを願うことは十分に考えられますし、その中で合格者の枠が決まっていれば、勝利の神様ははたしてどう判断するでしょうか。

祈り方にコツがあるというのも変ですが、単純にこうなってほしい、という自己中心的な願望ではなく、「この試験に合格することで世の中にこんなふうに貢献していける人間になりたい。だから合格させてください。」またはもっと広く構えて「自分は精一杯努力しました。自分の人生に一番意味のある結果にしてください。」と、人生の本質に添った願い方をしないと神様は聞き入れてくれないだろうと思います。そして願いには努力が必要ですから、本当に願うならそれに向けた努力をしていることが前提でしょう。

 

また、前者のような不特定多数の人を対象とした願いも大いによいとは思いますが、願いには持続力と具体性が大切です。

例えば「世界平和」を願ったとしましょう。これ自体は素晴らしい願いですが、ではあなたは果たして普段から世界平和について考えてそれを願っているか、そのための努力をしているか、という点がポイントになります。さらに願いには具体性が重要です。どんな方面から平和にしたいのか、自分レベルに落とした場合、何をやっていけるのか、まで考えないと漠然とした願いでは叶わず、単に「いいこと願った」という自己満足に終わってしまうでしょう。

以上、僭越ながら。(皆様が気軽に行事を楽しみたいだけというのは重々承知しております。)

しかし、願いや祈りの正しい考え方を覚えれば、もしも短冊に書く言葉は同じでも、心根は正しい方を向いている分、もっと願いに正当性が生まれると思うんですね。

あり得ない話ではありますが、皆様が神様になったとして、では逆に神様はどういう人々の願いを叶えてあげたいと思うかという視点が大切だと思います。

非常に僭越ながら、願いを叶えるためには心の方向性、具体性、努力が大切かな、くらいに受け止めていただけると幸いです。

 

ナチュラルケア水道橋外来センター

文:竹島